カテゴリ:【石】京都の石仏~雨の日も風の日も京の街を山を水辺を護り続ける"いしぼとけ"達
ミニブログコーナー:今回の
但称仏の記事は、魂京都にしては
桑原町以来の大作になっています。いかがでしょうか。ネットを見る限りでは、
但称仏のことを書いた記事の中で、一番写真の多い記事ではないかと自負しています。そして先週はとうとう、東京の養玉院如来寺にも取材に行ってきました。
但称仏の記事は、他の小ネタも挟みつつもうしばらく続きます。お付き合い下さい。
蓮華寺・後列の石仏群 H31.02.09撮影
後列には、様々な形態の十一体の石仏群が並びます。こちらも周りを生垣で囲われていますが、像によっては、後ろから銘が確認できました。どれも大きな破損はありませんが、指先や法具など細かいものは磨耗していたり、石質の変化もあって相応の年季を感じます。
蓮華寺・後列の石仏群 H31.02.09撮影
因幡薬師の住職の証言によると、
但称仏四体が因幡薬師にやってきたのは、昭和より前の時代ということなので、現在、因幡薬師、本圀寺にある四体の石仏が持ち出されたのは、現在の
蓮華寺からではなく、音羽山の山中からと考えられます。

蓮華寺・石仏群①・尼形坐像 H31.02.09撮影
後列の石仏群を、向かって右側から紹介します。合掌している尼の坐像は平太夫の母、妙珍です。顔が大分摩耗していますが、女性らしい穏やかな表情をしているように見えました。台座の表側に銘があり"母妙珍 樋口平大夫家次(花押)"と刻まれています。

蓮華寺・石仏群・地蔵立像② H31.02.09撮影
右手に錫杖、左手に宝珠を持つ地蔵菩薩立像です。背面には"樋口平大夫家次(花押) 作
但称(花押)"との銘があります。
但称仏の首が無い、撫で肩という特徴がよく表れています。

蓮華寺・石仏群・地蔵立像②の銘 H31.02.09撮影
背面の銘の"平太夫家"と"但称"の文字を写真に収めることが出来ました。

蓮華寺・石仏群・僧形坐像③ H31.02.09撮影
台座の表側に"天正十三 三月 父梅岳 道春 樋□ 平大夫 家次 立之"とあることから、これは平太夫の父の像です。おそらく天正13(1585)年は、梅岳が亡くなった年と思われますが、これら諸像が作成されたのが寛永18(1641)年で56年の年の開きがあります。平太夫の諱は家次なので、梅岳が相当年を取ってから生まれた子供なのでしょうか。

蓮華寺・石仏群・聖観音坐像④ H31.02.09撮影
光背の裏側に"願主岡村庄兵衛清之(花押) 寛永十八天陛作但称(花押)"の銘があり、但称の作品になります。こちらも、全体的に但称仏らしさがよくわかる作品です。

蓮華寺・石仏群・聖観音坐像④の銘 H31.02.09撮影
"願主岡村庄兵衛清之(花押) "が確認できます。調べてみたのですが、岡村庄兵衛という人物についてはよくわかりません。私の想像になりますが、平太夫と親しかった地域の有力者だったのではないでしょうか。

蓮華寺・石仏群・僧形坐像⑤ H31.02.09撮影
これが常信・
樋口平太夫の像であるようですが、銘などは特にありませんでした。平太夫の姿を伝える唯一の像と思われます。

蓮華寺・石仏群・地蔵立像⑥ H31.02.09撮影
後列の中央にある像です。他のものよりも、ひと際高い像のため中央に置かれたと思われます。光背の背面には"寛永十八辛巳年 願主本国伊勢之生武州江戸住樋口平大夫家次(花押) 月日造立之作但(花押)"とあり、但称の作品です。



蓮華寺・石仏群・地蔵立像⑥の銘 H31.02.09撮影
この像は"辛巳年"と"願主本国伊勢之生武州江戸住樋口平大夫家次(花押)"の部分を写真に収めることができました。

蓮華寺・石仏群・僧形坐像⑦ H31.02.09撮影
台座の表側に"願主 心翁常信 仏性院
但唱上人 弟子 林貞作"とあり、弟子の林貞が作った但称の像であることがわかります。林貞の但称像は、東京の
養玉院如来寺にもあります。

蓮華寺・石仏群・僧形坐像⑧ H31.02.09撮影
右手に密教の法具である五鈷杵(ごこしょ)、左手に数珠を持つ僧形の坐像です。特に空海であることを示す銘はありませんが、持ち物からこの像は弘法大師像と判断されたのだと思われます。

蓮華寺・石仏群・僧形坐像⑧の銘 H31.02.09撮影
背面には"願主
樋口平太夫家次(花押) 願主但称(花押)"の銘が確認できます。

蓮華寺・石仏群・僧形坐像⑨ H31.02.09撮影
左手に払子(ほっす)を持つ僧の像ですが、誰なのかはわかりません。蓮華寺に関連する人物であることが想像できます。

蓮華寺・石仏群・優婆塞形坐像⑩ H31.02.09撮影
頭巾をかぶる役行者像です。銘はありませんが、役小角像は頭巾を被った老人の姿で表現されることが多いようです。

蓮華寺・石仏群・僧形坐像⑪ H31.02.09撮影
こちらも僧形ですが、誰の像かはわかりません。個人的には、蓮華寺にある僧形の人物像は、弟子の林貞が作った但称像を除いて但称仏の特徴が出ていないように思われました。弟子との合作や名義のみというものもあるのでしょうか。以上、各像の名称や銘については、石像美術研究の第一人者であった、故川勝政太郎氏の論文「樋口平大夫と但称の作善」を参照させて頂きました。(続く)
参考文献:
「京の石仏」 佐野精一 1978(昭和53)年 サンブライト出版
「
樋口平大夫と但称の作善」 川勝政太郎 1974(昭和49)年大手前女子大学論集8号
「品川歴史館特別展 大井に大仏がやってきた-養玉院如来寺の歴史と寺宝」 品川区立品川歴史館 2013年発行
ブログ「のんびり生きよう」
但唱上人の足跡(年表) 2013.11.04
ブログ「のんびり生きよう」
京都 因幡堂(平等寺) 2014.11.11
写真少年漂流記の旧サイト
続・蓮華寺から流失した石仏の謎 2010.11.4
広沢池十一面千手観音像奇譚
五智山蓮華寺: 京都市右京区御室大内20(
WEB/
MAP)
同名の蓮華寺は左京区にもありますので、訪問の場合はご注意下さい。
H31.06UP
- 関連記事
-
スポンサーサイト
テーマ:京都 - ジャンル:地域情報
2019.06.30 |
| Comments(0) | Trackback(0) | 【石】京都の石仏
カテゴリ:【石】京都の石仏~雨の日も風の日も京の街を山を水辺を護り続ける"いしぼとけ"達
ミニブログコーナー:昨日、ずっと行きたかった神保町の古本屋街へ行ってきました。目的はサザンの古い雑誌などを物色するためです。結果80年代のツアーパンフを始め、貴重な資料を何点か手に入れることが出来ました。今回は2店しか回れませんでしたが、時間のある時にまたゆっくり行ってみたいですね。

仁和寺・二王門 H31.02.09撮影
前回までの記事で
因幡薬師と
山科の本圀寺にある但称仏は、御室の
蓮華寺から盗み出されたものであることがわかりました。私は
但称の作成した
五智如来を始めとする石仏群があるという御室へ向かいました。
蓮華寺・入口 H31.02.09撮影
蓮華寺はそれほど大きな寺院ではありませんが、
真言宗御室派の別格本山という格式の高い寺院で、京都では土用の丑の日に行われるきゅうり封じでよく知られる寺院です。仁和寺の東門から細い道路を1本挟んだ反対側に入り口があり、仁和寺の駐車場脇のスロープを昇って行きます。
蓮華寺・
五智如来像 H31.02.09撮影
スロープを上がるとすぐに見えてくるのは、本堂を護るかのように、境内の中央で静かに鎮座する
五智如来像。密教の根本仏である、大日如来を中心とした五体の石仏が並ぶ光景はなかなか壮観です。後ろには、更に石仏石像十一体が並びます。この石仏群は京都市内では深草の石峰寺と並ぶ大規模なものです。

蓮華寺・
五智如来像 H31.02.09撮影
五智如来は向かって右から薬師如来、宝生如来、大日如来、阿弥陀如来、釈迦如来の順に並んでいます。ぐるりと生垣に囲まれていて、石仏のすぐそばまで寄ることはできません。

蓮華寺・五智如来像 H31.02.09撮影
私の視力の問題でで銘は確認できなかったのですが、品川区立品川歴史館発行の「品川歴史館特別展 大井に大仏がやってきた-養玉院如来寺の歴史と寺宝」によると、5体とも背面の左腰下に"作
但称(花押)"の銘が入っているそうです。

蓮華寺・本堂 H31.02.09撮影
蓮華寺は1057(天喜5)年に後冷泉天皇の勅願によって、藤原康基が開創しました。応仁の乱に巻き込まれ、鳴滝音戸山の山上に移されましたが、寺はその後、長期に渡り荒廃します。

五智如来像他諸石像遷座記 H31.02.09撮影
その後、伊勢出身で元は江戸の豪商であった常信という僧が、1641(寛永18)年)に蓮華寺を再興しました。この常信こそが、因幡薬師と本圀寺の
但称仏に名前があった樋口平太夫家次という人物です。

大坂夏の陣図屏風(一部) Wikipediaより
平太夫についての詳しい史料は伝わっていませんが、蓮華寺の寺伝を要約すると、彼は豊臣家に仕えていましたが、主家滅亡後は海外へ出国します。その後、出国が罪に問われ、同志は悉く罪に問われますが、平太夫一人が死を免れ、江戸に出たとあります。

蓮華寺・五智如来像・薬師如来 H31.02.09撮影
平泉の中尊寺に平太夫が奉納した金札が残っていますが、そこには日本橋材木町在住の記載があります。その後の彼の生涯を考えると、平太夫はかなり裕福な材木商であったと考えられます。

蓮華寺・五智如来像・宝生如来 H31.02.09撮影
その後、常に心の休まることのなかった平太夫は、殺されてしまった同志に対する冥福の思いから出家して、心翁常信居士と名乗り、諸国遍路の旅に出ます。やがて1635(寛永12)年にこの地に入り、蓮華寺の荒廃を知り6年をかけて蓮華寺を再興しました。

蓮華寺・五智如来像・大日如来 H31.02.09撮影
寺院の再興と同時にこの石仏群も、平太夫が
但称に作成を依頼、但称は信州・浅間・紀州那智三山でそれぞれ百日の荒行を行い、石仏群を完成しました。

蓮華寺・五智如来像・阿弥陀如来 H31.02.09撮影
1928(昭和3)年に、音羽山の山上から蓮華寺は現在の場所に移され、1958年(昭和33)年、山中のあちこちに離散していた仏像がこの場所に集められました。

蓮華寺・五智如来像・釈迦如来 H31.02.09撮影
五智如来は一体も欠けることなくこの場所に集められました。現在も外観に、それほど大きな損傷等も見受けられません。1928(昭和3)年移動の際には、大日如来の台座の下から、平太夫の写経等が発見されています。(続く)
参考文献:
「京の石仏」 佐野精一 1978(昭和53)年 サンブライト出版
「
樋口平大夫と但称の作善」 川勝政太郎 1974(昭和49)年大手前女子大学論集8号
「品川歴史館特別展 大井に大仏がやってきた-養玉院如来寺の歴史と寺宝」 品川区立品川歴史館 2013年発行
ブログ「のんびり生きよう」
但唱上人の足跡(年表) 2013.11.04
ブログ「のんびり生きよう」
京都 因幡堂(平等寺) 2014.11.11
写真少年漂流記の旧サイト
続・蓮華寺から流失した石仏の謎 2010.11.4
広沢池十一面千手観音像奇譚五智山蓮華寺五智如来像他諸石像遷座記(蓮華寺境内の石碑)
五智山蓮華寺: 京都市右京区御室大内20(
WEB/
MAP)
蓮華寺は左京区にもありますのでご注意下さい。
H31.06UP
- 関連記事
-
テーマ:京都 - ジャンル:地域情報
2019.06.23 |
| Comments(0) | Trackback(0) | 【石】京都の石仏
カテゴリ【食】:京都で食べる
~私が京都で食べた店、食べたい店をご案内します。味音痴なのでグルメガイドはできません。まずかったり、印象悪かった所は掲載していませんので。
ミニブログコーナー:父は若い頃から運転が大好きなのですが、とうとう高齢のため免許を返納することにしたそうです。家族としては安心なのですが、好きなものを辞めてしまうことで、気が抜けてしまわないか心配しています。こういう方、きっと多いと思うのですが、みなさんどうされているんでしょう。父は車を磨くのも好きなので、運転はしないまでも、車はそのまま残すようにアドバイスしようかなと思っています。

ケンケン・入口 H31.02.09撮影
以前、京大生を取材している番組で、こちらの食堂が紹介されていました。質量ともにとても美味しそうな店だったので、ランチで利用してみました。今出川通りの北側、吉田山に上がる鳥居の斜向かいのビルの1Fです。

ケンケン・メニュー H31.02.09撮影
京大吉田キャンパス北部構内の入口から東へ250m程です。若いうちは肉に偏りがちですが、魚も食べられるようにしているというところが、嬉しいですね。

ケンケン・店内 H31.02.09撮影
店内はテーブル、カウンター合わせて全部で20席くらい。壁は板の木目が、何となく暖かい雰囲気を醸し出しています。少しだけランチの時間を外した頃でしたが、学生さんが数組、食事をとっていました。営業は2人でやっているようで、お茶と水はセルフサービス。

ケンケン・メニュー H31.02.09撮影
主なものでもから揚げ、油淋鶏、ハンバーグ、とんかつ、サバの塩焼き、大根の味噌煮と定食メニューは結構豊富です。メインにご飯、味噌汁、サラダ、小鉢2つがついてきます。今回は、"とりのからあげアボガドタルタルのせ定食"870円を注文しました。

ケンケン・からあげアボガドタルタルのせ定食 H31.02.09撮影
アボガド風味のタルタルがたっぷりに乗ったから揚げ定食です。から揚げの数はなんと7個!大食いの私ですが、ご飯普通盛りでも腹いっぱいになりました。味噌汁がもう少しぬるかったのがちょっと残念でしたが、十分満足できる味とボリュームでした。もっと食べたい人はから揚げプラス2個で100円、ご飯のおかわりは100円です。ドレッシングはセルフで数種類から選べます。

ケンケン・メニュー_H31.02.09撮影
店内はフリーワイファイもあり、パスは貼りだしてあります。ランチタイムは12:00~14:30と時間に余裕があったので、180円の珈琲を追加して、少しゆっくりしてから帰りました。
定食屋ケンケン:京都市左京区 北白川西町 82-3 光楽堂ビルB1/京都市左京区 北白川西町 82-3 光楽堂ビルB1(
MAP)
取材:H31.02.09/H31.06UP
- 関連記事
-
テーマ:京都 - ジャンル:地域情報
2019.06.15 |
| Comments(0) | Trackback(0) | 【食】京都で食べる
カテゴリ:【石】京都の石仏~雨の日も風の日も京の街を山を水辺を護り続ける"いしぼとけ"達
ミニブログコーナー:趣味のアジサイなんですが、今年は暑くなったのが早いせいか、2度も水を切らしてしまい、2鉢、せっかくついた花を枯らしてしまいました。年に一度の楽しみな月なのに残念です。その後、今度は天気が不安定なせいか、色づきも悪い。今年はもうあきらめました。挿し枝も気がのらないので、今年は楽にできる水挿しにしようと思います。

本圀寺の赤い橋 H31.02.09撮影
因幡薬師に続いて、山科にある本國寺(ほんこくじ)へ向かいました。日蓮が鎌倉に開いた法華堂を起源とする日蓮宗の大本山です。東西線の御陵駅から住宅地を抜けて山を登っていくと、下界と聖域とを隔てるような真っ赤な橋があります。この先が目的の本圀寺です。

本圀寺・九頭龍銭洗弁財天 H31.02.09撮影
境内に入って、大本堂の向かって右隣にある本師堂のさらに右側辺りに、九頭龍銭洗弁財天があります。金の扁額がある赤い鳥居です。ちなみに数年前までは、この鳥居全体が金色でした。本圀寺はかつて境内のあちらこちらに金色の装飾が用いられていましたが、2013(平成25)年以降、改められているそうです。

本圀寺・九頭龍銭洗弁財天 H31.02.09撮影
鳥居の向こうには石灯籠に巻き付く黄金の龍、こちらが九頭龍銭洗弁財天です。その名の通り、金運、財運にご利益があり、龍の口から流れる霊水でお金を洗うというのは、皆さまご存じの通りです。こちらは金色でもあまり違和感はありません。

本圀寺・勢至菩薩像(高さ136cm) H31.02.09撮影
九頭龍弁天の前を護るように、但称の作った石仏が2体安置されています。向かって左が勢至菩薩です。勢至菩薩は阿弥陀三尊の右脇侍として作られることが多く、合掌している姿で表現されます。

本圀寺・勢至菩薩像 H31.02.09撮影
やはり、但称の作品らしく、ずんぐりした体型でふくよかな顔立ちをしています。表情はとても穏やか、目立った損傷はあまりありませんが、手足の指先が摩耗している状態です。

本圀寺・勢至菩薩像横から H31.02.09撮影
横から見ると、やや小腰をかがめた前傾姿勢であることがわかります。高さは約136センチで、もう一体より一回り大きなサイズで、4頭身くらいでしょうか。また、左耳と右肩から胸が白く変色しているのが目立ちます。

本圀寺・勢至菩薩像背後から H31.02.09撮影
背後に回って見ると、像の下部、裳(も)の裾の部分に銘が入っているのが確認できます。背後にも白く変色した部分がありました。

本圀寺・勢至菩薩像の裏側の銘 H31.02.09撮影
銘には"願主樋口平太夫家次(花押)" "作者 但称(称は旧字)(花押)"とはっきり彫られていました。また、銘の周辺には赤錆のような色が浮き出しています。本小松石は原石の状態では、表面が酸化し赤褐色だそうです。研磨によって緑がかった灰色になるそうですが、作成当時の研磨技術の問題でしょうか。

本圀寺・十一面観音像(高さ127cm) H31.02.09撮影
向かって右が十一面観音像です。もちろんこちらも但称仏の特徴を備えていますが、見ようによっては下腹部が少し出ているようにも見えます。勢至菩薩同様に白い変色が点々とありました。

本圀寺・十一面観音像・両手 H31.02.09撮影
こちらは損傷が激しく、左手は指先が欠け、右手は手首からありません。右手首には穴が開けられていますが、棒状のものを使って補強していた時期があったのでしょうか。

本圀寺・十一面観音像・頭部 H31.02.09撮影
頭部も摩耗、破損が進んでいますが、頭の周りに10面と頭頂に2面の顔があるのが確認できます。頭頂には破損している部分にもう2面顔があったと思われます。ちなみに
wikipediaの十一面観音の項で顔については「通例、頭上の正面側に柔和相(3面)、左側(向かって右)に憤怒相(3面)、右側(向かって左)に白牙上出相(3面)、背面に大笑相(1面)、頭頂に仏相を表す」と説明されています。

本圀寺・十一面観音像・裏側 H31.02.09撮影
裏側に回ると背中の中央から下にかけて、はっきりと銘が入っているのがわかります。本國寺の但称仏は2体とも、因幡薬師のもののように銘が消されていたりはしていませんでした。

本圀寺・十一面観音像・裏側の銘 H31.02.09撮影
銘の内容は"願主樋口平太夫家次(花押)" "作者 但称(称は旧字)(花押)"で勢至菩薩のものと同じです。こちらも銘の部分に赤錆のような色が浮き出ています。

本圀寺・勢至菩薩と十一面観音像 H31.02.09撮影
1978(昭和53)年出版の「京の石仏」によると、1975(昭和50)年の時点では、本圀寺の中で山積みにされた石材の中にこの二仏があったと記載されています。掲載されている二仏の写真を見ると、現在と違って台座がくっついているような形で置かれていました。背景ははっきり写っていませんが、場所も別の場所のようです。

堀川警察署(2012(平成24)年廃止) Wikipediaより
こちらのHPによると、1961(昭和46)年に本圀寺が堀川六条から現在地の山科に移転する際に、堀川警察署裏手の墓地に、御室の蓮華寺から無くなった石仏二体が置かれていることが知られていたそうで、これが盗品であることは本圀寺も知っていたというのです。移転前の本圀寺は、現在の西本願寺の北側、現在の聞法会館のある場所にありました。
旧堀川警察周辺地図
*柿本町568の地点が堀川警察署跡地
旧堀川警察署はそこから北へ500mほどなので、本圀寺に因縁のあるものが裏手の墓地に隠されていてもおかしくはありません。堀川警察の裏手がどこを指すのかがあいまいですが、すぐ裏は本圀寺の塔頭・智光院、堀川警察署のあるブロックから猪熊通を挟んだ西は妙恵会墓地で、現在も本圀寺の塔頭寺院が管理している墓地でもあります。
妙恵会墓地
そもそも鎌倉期に起源をもち、1345(貞和元)年に堀川六条に移転した由緒ある古刹が山科に移転した理由は、昭和30年代に本圀寺が衰微して借財や訴訟により六条堀川の土地を売却したためです。貴重な仏像や美術品が関係者によって勝手に売却されるなど、モラルハザードを起こしている状態であったので、盗品である石仏を扱うことなど朝飯前だったでしょう。

因幡薬師・毘沙門天と金剛夜叉明王 H31.02.08撮影
前回の因幡薬師の但称仏の記事では「昭和より前の時代に売買の対象としてどこかから4体移されてきて、今2体残っている。」という住職の証言がご紹介しました。ということは、御室の蓮華寺から盗まれた4体の石仏が、一旦、因幡薬師に置かれ、その後、本圀寺側に2体が渡ったということでしょうか。そのような経緯があれば、出所を隠すために因幡薬師の金剛夜叉明王の銘が埋められていたことも説明がつきます。

佐野精一著「京の石仏」
さきほど引用させて頂いたHPの作成者は、病床にある「京の石仏」の著者の佐野精一氏から、これらが盗品であったという真相を聞いたそうです。私もこの本を入手して読みましたが、佐野氏がいいかげんな憶測を言う人物とも思えませんし、他にも盗まれた石仏の真相を見破った事実も書かれていました。(続く)
注:盗品とは言いますが、百年近く前の話です。現在の因幡薬師や本圀寺が盗難に関わっているということではありませんので、その辺はご理解下さい。
参考文献:
「京の石仏」 佐野精一 1978(昭和53)年 サンブライト出版
「
樋口平大夫と但称の作善」 川勝政太郎 1974(昭和49)年大手前女子大学論集8号
「品川歴史館特別展 大井に大仏がやってきた-養玉院如来寺の歴史と寺宝」 品川区立品川歴史館 2013年発行
ブログ「のんびり生きよう」
但唱上人の足跡(年表) 2013.11.04
ブログ「のんびり生きよう」
京都 因幡堂(平等寺) 2014.11.11
写真少年漂流記の旧サイト
続・蓮華寺から流失した石仏の謎 2010.11.4
大光院本圀寺:京都市山科区御陵大岩6(
WEB/
MAP)
H31.06UP
- 関連記事
-
テーマ:京都 - ジャンル:地域情報
2019.06.09 |
| Comments(0) | Trackback(0) | 【石】京都の石仏
カテゴリ:【石】京都の石仏~雨の日も風の日も京の街を山を水辺を護り続ける"いしぼとけ"達
ミニブログコーナー:数日前にツイッターでもした話ですが、私が撮った京都の小便除け鳥居の写真を放送で使わせてほしいとTBSのNスタからDMが届きました。お役に立てばということで喜んで快諾したのですが、放送を見たら使われていたのは似た構図の有料サイトの写真でした。最終的に使わなかったの一言もありません。おそらく連絡してきたのはADで決定権はなかったんだろうなと思うのですが、使わないのなら、最初から連絡してくんなよと腹が立ちました。

広沢池・千手観音像 H26.04.05撮影
今回の記事では、或る人物が遺した石仏を探して京都を巡ります。私が大好きな広沢池の観音島にある千手観音の石仏も、その人物の作品の一つです。

江戸時代の仏師 wikipediaより
その人物の名は、安土桃山から江戸初期に生きた、僧であり仏師の木食上人
但称(たんしょう)です。史料によっては
但唱とも書くようですが、この記事では
但称で統一します。
但唱座像(養玉院
如来寺蔵)
*養玉院如来寺のご住職にご許可を頂いて掲載しております。但称は、本能寺の変の3年前、1579(天正7)年に摂津有馬に生まれました。18歳で佐渡の弾誓に弟子入りし、その後、諸国で木食行を重ねて修行し、信州を中心に数多くの石仏や木仏を遺しています。そして1635(寛永12)年に江戸芝高輪に
帰命山如来寺を開きました。

養玉院
如来寺・五智如来坐像 Wikipediaより
その如来寺は大正時代に養玉院と合併し、現在は天台宗の寺院、
帰命山養玉院如来寺として東京・西大井にあります。大井の大佛(おおぼとけ)とよばれる五智如来像、荏原七福神(布袋尊)が有名です。

養玉院如来寺 Wikipediaより
実は
但称は江戸の仏師、又七という人物でキリスト教徒として磔刑にされるはずが、奇跡的に助かりその後改心して出家したという伝承(「事跡合考」1772(明和9)年・柏崎永以)があるのです。そのため如来寺は隠れキリシタンの寺であるという伝説もありますが、
但称の足跡を考えるとこの伝説は別人のことでしょう。

因幡薬師(
平等寺) H31.02.08撮影
まず最初に、烏丸高辻近くの因幡薬師を訪ねました。不明門(あけず)通りの突き当りにあり、通の名前の語源にもなった寺です。かつて、この寺の門が常に閉ざされていたことから、ここに突き当たる通の名が不明門通と名付けられました。平安末期に高倉天皇が、すぐ南の東五条院を御所としたため、それに遠慮して門を閉めていたそうです。

因幡薬師の石仏 H31.02.08撮影
こちらが今回訪ねた、本堂の西側に安置されている毘沙門天と金剛夜叉明王です。以前に隣に置かれている
閻魔大王の石像の記事でもご紹介しました。

因幡薬師・毘沙門天像(134.0cm) H31.02.08撮影
デフォルメされたフィギアのようなずんぐりむっくりした体型はで4頭身くらい、ふくよかでやや大きめ、幼げな顔が特徴的な毘沙門天像です。表情は違いますが、広沢池の千手観音にどことなく似ています。右手は失われていますが宝塔を上に掲げ、左手には宝棒を持っていたはずです。

因幡薬師・金剛夜叉明王像(147.0cm) H31.02.08撮影
毘沙門天よりもややスマートな感じがする金剛夜叉明王です。顔が小さめなのは髪が逆立っていることと顔が三面だからでしょうか。明王なので怒りの表情ですが、何となくあどけなさのある表情です。また両仏とも首と肩が一体ですが、これも
但称の作品の特徴の一つです。6本あるはずの腕は4本失われ、正面の2本の手のみ残っています。

因幡薬師・金剛夜叉明王像の裏側 H31.02.08撮影
金剛夜叉明王の後ろに回って銘を見てみました。裏側が狭く、写真を撮るのも難しい状態です。銘は何故か白い物で埋めたような形跡があります。

因幡薬師・金剛夜叉明王像の裏側の銘_H31.02.08撮影
下の方も文字が埋められていますが、素人の私でもわかるくらいはっきりと"作但"の文字が確認できます。この部分は明らかに"作但称"と彫られていたと思われます。

因幡薬師・毘沙門天像の裏側の銘 H31.02.08撮影
毘沙門天の裏側も一部を白く埋めた跡がありますが、"伊勢生" "十八年"と彫られているのがわかります。

因幡薬師・毘沙門天像の裏側の銘 H31.02.08撮影
下部には「
樋口平太夫家次」「作但称(称は旧字体)」の文字が確認できます。
樋口平太夫家次については後述しますが、但称に多くの石仏の作成を依頼した人物で、銘の通り出身は伊勢です。また
こちらのHPでは、この二体の石仏の石を真鶴岩海岸のものと断定されています。真鶴は現在の神奈川県真鶴町で、但称が江戸に如来寺を創建した後、
樋口平太夫の依頼を受け石仏を造立した土地で、本小松石の産地です。

因幡薬師・毘沙門天像と金剛夜叉明王像 H31.02.08撮影
お寺の方にこの仏像の由来を伺うと、しばらく考えてから「50年くらいかな、どっかから二体持ってきた」とおっしゃっていました。あまりはっきりご存じなかったようですが、前述のブログでは、昭和より前の時代に売買の対象としてどこかから4体移されてきて、今2体残っているという住職の証言が掲載されています。(続く)
参考文献:
「京の石仏」 佐野精一 1978(昭和53)年 サンブライト出版
「
樋口平大夫と但称の作善」 川勝政太郎 1974(昭和49)年大手前女子大学論集8号
「品川歴史館特別展 大井に大仏がやってきた-養玉院如来寺の歴史と寺宝」 品川区立品川歴史館 2013年発行
ブログ「のんびり生きよう」
但唱上人の足跡(年表) 2013.11.04
ブログ「のんびり生きよう」
京都 因幡堂(平等寺) 2014.11.11
協力:
品川区立品川歴史館/養玉院如来寺
因幡薬師(
平等寺):京都市下京区因幡堂町728(
WEB/
MAP)
H31.06UP
- 関連記事
-
テーマ:京都 - ジャンル:地域情報
2019.06.02 |
| Comments(0) | Trackback(0) | 【石】京都の石仏
« | HOME |
»