FC2ブログ

    【石】但称の石仏を巡る~その1 因幡薬師平等寺

    カテゴリ:【石】京都の石仏~雨の日も風の日も京の街を山を水辺を護り続ける"いしぼとけ"達


    ミニブログコーナー:数日前にツイッターでもした話ですが、私が撮った京都の小便除け鳥居の写真を放送で使わせてほしいとTBSのNスタからDMが届きました。お役に立てばということで喜んで快諾したのですが、放送を見たら使われていたのは似た構図の有料サイトの写真でした。最終的に使わなかったの一言もありません。おそらく連絡してきたのはADで決定権はなかったんだろうなと思うのですが、使わないのなら、最初から連絡してくんなよと腹が立ちました。
    広沢池・千手観音像_H26.04.05撮影
    広沢池・千手観音像 H26.04.05撮影

    今回の記事では、或る人物が遺した石仏を探して京都を巡ります。私が大好きな広沢池の観音島にある千手観音の石仏も、その人物の作品の一つです。

    江戸時代の仏師_wikipedia
    江戸時代の仏師 wikipediaより

    その人物の名は、安土桃山から江戸初期に生きた、僧であり仏師の木食上人但称(たんしょう)です。史料によっては但唱とも書くようですが、この記事では但称で統一します。

    但唱座像(養玉院如来寺蔵)
    但唱座像(養玉院如来寺蔵)*養玉院如来寺のご住職にご許可を頂いて掲載しております。

    但称は、本能寺の変の3年前、1579(天正7)年に摂津有馬に生まれました。18歳で佐渡の弾誓に弟子入りし、その後、諸国で木食行を重ねて修行し、信州を中心に数多くの石仏や木仏を遺しています。そして1635(寛永12)年に江戸芝高輪に帰命山如来寺を開きました。

    瑞應殿・五智如来像_R01.06.22撮影
    瑞應殿・五智如来像 R01.06.22撮影

    その如来寺は大正時代に養玉院と合併し、現在は天台宗の寺院、帰命山養玉院如来寺として東京・西大井にあります。大井の大佛(おおぼとけ)とよばれる五智如来像、荏原七福神(布袋尊)が有名です。

    養玉院如来寺_Wikipediaより
    養玉院如来寺 Wikipediaより

    実は但称は江戸の仏師、又七という人物でキリスト教徒として磔刑にされるはずが、奇跡的に助かりその後改心して出家したという伝承(「事跡合考」1772(明和9)年・柏崎永以)があるのです。そのため如来寺は隠れキリシタンの寺であるという伝説もありますが、但称の足跡を考えるとこの伝説は別人のことでしょう。

    因幡薬師(平等寺)_H31.02.08撮影
    因幡薬師(平等寺) H31.02.08撮影

    まず最初に、烏丸高辻近くの因幡薬師を訪ねました。不明門(あけず)通りの突き当りにあり、通の名前の語源にもなった寺です。かつて、この寺の門が常に閉ざされていたことから、ここに突き当たる通の名が不明門通と名付けられました。平安末期に高倉天皇が、すぐ南の東五条院を御所としたため、それに遠慮して門を閉めていたそうです。

    因幡薬師の石仏_H31.02.08撮影
    因幡薬師の石仏 H31.02.08撮影

    こちらが今回訪ねた、本堂の西側に安置されている毘沙門天と金剛夜叉明王です。以前に隣に置かれている閻魔大王の石像の記事でもご紹介しました。

    因幡薬師・毘沙門天_H31.02.08撮影
    因幡薬師・毘沙門天像(134.0cm) H31.02.08撮影

    デフォルメされたフィギアのようなずんぐりむっくりした体型はで4頭身くらい、ふくよかでやや大きめ、幼げな顔が特徴的な毘沙門天像です。表情は違いますが、広沢池の千手観音にどことなく似ています。右手は失われていますが宝塔を上に掲げ、左手には宝棒を持っていたはずです。

    因幡薬師・金剛夜叉明王_H31.02.08撮影
    因幡薬師・金剛夜叉明王像(147.0cm) H31.02.08撮影

    毘沙門天よりもややスマートな感じがする金剛夜叉明王です。顔が小さめなのは髪が逆立っていることと顔が三面だからでしょうか。明王なので怒りの表情ですが、何となくあどけなさのある表情です。また両仏とも首と肩が一体ですが、これも但称の作品の特徴の一つです。6本あるはずの腕は4本失われ、正面の2本の手のみ残っています。

    因幡薬師・金剛夜叉明王の裏側の銘_H31.02.08撮影
    因幡薬師・金剛夜叉明王像の裏側 H31.02.08撮影

    金剛夜叉明王の後ろに回って銘を見てみました。裏側が狭く、写真を撮るのも難しい状態です。銘は何故か白い物で埋めたような形跡があります。

    因幡薬師・金剛夜叉明王の裏側の銘_H31.02.08撮影
    因幡薬師・金剛夜叉明王像の裏側の銘_H31.02.08撮影

    下の方も文字が埋められていますが、素人の私でもわかるくらいはっきりと"作但"の文字が確認できます。この部分は明らかに"作但称"と彫られていたと思われます。

    因幡薬師・毘沙門天の裏側の銘_H31.02.08撮影
    因幡薬師・毘沙門天像の裏側の銘 H31.02.08撮影

    毘沙門天の裏側も一部を白く埋めた跡がありますが、"伊勢生" "十八年"と彫られているのがわかります。

    因幡薬師・毘沙門天の裏側の銘_H31.02.08撮影
    因幡薬師・毘沙門天像の裏側の銘 H31.02.08撮影

    下部には「樋口平太夫家次」「作但称(称は旧字体)」の文字が確認できます。樋口平太夫家次については後述しますが、但称に多くの石仏の作成を依頼した人物で、銘の通り出身は伊勢です。またこちらのHPでは、この二体の石仏の石を真鶴岩海岸のものと断定されています。真鶴は現在の神奈川県真鶴町で、但称が江戸に如来寺を創建した後、樋口平太夫の依頼を受け石仏を造立した土地で、本小松石の産地です。

    因幡薬師・毘沙門天と金剛夜叉明王_H31.02.08撮影
    因幡薬師・毘沙門天像と金剛夜叉明王像 H31.02.08撮影

    お寺の方にこの仏像の由来を伺うと、しばらく考えてから「50年くらいかな、どっかから二体持ってきた」とおっしゃっていました。あまりはっきりご存じなかったようですが、前述のブログでは、昭和より前の時代に売買の対象としてどこかから4体移されてきて、今2体残っているという住職の証言が掲載されています。(続く)


    参考文献:
    「京の石仏」 佐野精一 1978(昭和53)年 サンブライト出版
    樋口平大夫と但称の作善」 川勝政太郎 1974(昭和49)年大手前女子大学論集8号
    「品川歴史館特別展 大井に大仏がやってきた-養玉院如来寺の歴史と寺宝」 品川区立品川歴史館 2013年発行
    ブログ「のんびり生きよう」 但唱上人の足跡(年表) 2013.11.04
    ブログ「のんびり生きよう」 京都 因幡堂(平等寺 2014.11.11
    協力:
    品川区立品川歴史館/養玉院如来寺
    因幡薬師(平等寺):京都市下京区因幡堂町728(WEB/MAP
    H31.02.08取材/H31.06UP/R01.6.22追加取材(養玉院如来寺)/R02.01加筆修正

    関連記事
    スポンサーサイト



    テーマ:京都 - ジャンル:地域情報

    2019.06.02 | | Comments(0) | Trackback(0) | 【石】京都の石仏

    «  | HOME |  »

    YouTube

    タイムライン

    リンク

    trip-partner197
    Trip-Partner
    ぷらたび


    京都市 ブログランキング

    にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 京都(市)情報へ
    にほんブログ村

    都の商売人様バナー
    都の商売人様運営サイト
    “空想の匣”

    プロフィール

    SOULKYOTO

    Author:SOULKYOTO
    東京生まれの東京育ち、でも魂は京都人
    自称・勝手に京都観光大使

    全記事表示リンク

    全ての記事を表示する

    カテゴリ

    カレンダー

    05 | 2019/06 | 07
    - - - - - - 1
    2 3 4 5 6 7 8
    9 10 11 12 13 14 15
    16 17 18 19 20 21 22
    23 24 25 26 27 28 29
    30 - - - - - -

    検索フォーム

    ブロとも申請フォーム

    この人とブロともになる

    QRコード

    QR