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    【ト】道路だけの町、桑原町

    カテゴリ:【ト】京都のトピック
    ~京都の街で見かけた面白いもの、興味深いもの、変わったものetc...


    ミニブログコーナー:今回は魂京都初の大作です。初めは大した記事にならないかと思いましたが、作っているうちにハマってしまいました。学問的に正しい検証になったかどうかはわかりませんが、ご覧頂ければ幸いです。地図の掲載許可を下さった立命館大学アート・リサーチセンター、京都大学文学研究科、京都市都市計画局の皆様、ご協力ありがとうございました。

    京都地方裁判所_H30.06.15撮影
    京都地方裁判所 H30.06.15撮影

    京都に町域が道路だけしかないという、変わった町があると聞いて、中京区の京都地方裁判所までやってきました。裁判所の前は御所の南端を東西に走る丸太町通りです。

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    グーグルマップで地図を表示するとこの通りです。ピンク色の部分が町域を表していますが、町の90%以上が、裁判所前の丸太町通りとその歩道になっています。もちろんこれでは人は住めません。

    裁判所前バス停(北側)_H30.06.15撮影
    裁判所前バス停(北側) H30.06.15撮影

    町域に唯一ある施設は裁判所前バス停ですが、東に向かう北側(京都御苑側)のバス停のみが町域に含まれ、南側のバス停は中京区四丁目というこれまた変わった名前の町に含まれています。ちなみに裁判所の公式の所在地は中京区菊屋町(番地なし)です。

    (ブラウザがIEの場合表示されないことがあります。)

    グーグルマップを航空写真にしてみると、桑原町の北側は京都御苑の森の緑がとても印象的です。ちなみに桑原町はなんと郵便番号(604-0976)も割り振られています。(証拠) 町の形は逆鍵かっこ型の桑原町、どうしてこのような町が出来たのでしょうか。

    桑原町(東側から)_H30.06.15撮影
    桑原町(東側から) H30.06.15撮影

    2018年3月6日の乗り物ニュースの記事によると京都歴史資料館の話として、元々、町があった場所にあった丸太町通りの幅が次第に広がり、町の名前だけが残ったのではないかと書かれています。確かに丸太町通りは道幅も広いので、この話は納得できるものがあります。

    桑原町(西側から)_H30.06.15撮影
    桑原町(西側から) H30.06.15撮影

    かつての京都の街割りは碁盤の目のような街路で編成され、一つの路を挟んでその両側で一つの町(両側町)を形成したと云います。丸太町通りの幅が広がり、桑原町が道に呑まれる形で、このような町が誕生したのでしょうか。

    桑原町_昭和28年(都市計画)
    1953(昭和28)年京都市都市計画基本図【立命館大学アート・リサーチセンター提供】
     【この地図は京都市発行の都市計画基本図(縮尺1/3,000)を参考にし、作成したものです。】

    1953(昭和28)年の地図を入手しました。この時点では現在とほぼ同じ場所に桑原町が存在しているのが確認できます。町の形が長方形です。京都地方裁判所の庁舎は旧庁舎になります。(現在の庁舎は2001(平成13)年11月に竣工)

    桑原町_昭和26年頃京都市明細図(総合資料館版)
    1951(昭和26)年頃の京都市明細図(総合資料館版) 【立命館大学アート・リサーチセンター提供】

    さらに2年遡ります。裁判所の形や桑原町の形、大きさが変わっていますが、これは地図が手書きのためでしょうか。柳馬場通り、富小路通り、麩屋町通りの名前が確認できます。

    桑原町_昭和10年(都市計画)
    1935(昭和10)年京都市都市計画基本図【立命館大学アート・リサーチセンター提供】
     【この地図は京都市発行の都市計画基本図(縮尺1/3,000)を参考にし、作成したものです。】

    戦前のものになりますが、1953(昭和28)年のものとほぼ同じです。そのため、この前の1951(昭和26)年のものの町の大きさや形に変化があったことは、手書きだったために無視してよいことが明らかです。

    桑原町_昭和4年(都市計画)
    1929(昭和4)年京都市都市計画基本図【立命館大学アート・リサーチセンター提供】
     【この地図は京都市発行の都市計画基本図(縮尺1/3,000)を参考にし、作成したものです。】

    ここで桑原町の名前が來原町になっていました。また町の境界線の南側と東側が無くなり、桝屋町との境界があいまいになりました。

    桑原町_昭和2年(長谷川家版)
    1927(昭和2)年京都市明細図(長谷川家版)【立命館大学アート・リサーチセンター提供】

    2年前に遡ると、來原町の表記が桑原町に戻っていました。境界はしっかり描かれており、町の形は1951(昭和26)の地図の正方形に近い形です。

    桑原町_大正11年(都市計画)
    1922(大正11)年京都市計画基本図【京都大学文学研究科所蔵】【立命館大学アート・リサーチセンター提供】

    1929(昭和4)年のものと同じもののですようですが、境界線がこの地図では描かれています。町名はこの地図ではまた來原町です。丸太町通りが拡張されたのは、1895(明治28)年の第2代京都市長西郷菊次郎の京都三大事業によるものなので、これ以前の地図があれば丸太町通りの両側に町があったことがわかるかもしれません。

    桑原町_幕末
    桑原町 幕末
    (こちらの地図は非常にアバウトな形で掲載許可を頂いたので出元を公表することができません。)

    幕末のものになります。富小路と柳馬場に挟まれた部分に、桑原町を見つけることが出来ました。過去の來原町の表記は誤植ということでしょう。丸太町通りの表記がないので、町が路に呑み込まれたかどうかはわかりませんが、幕末に桑原町が存在していたことだけはわかりました。

    京大江図_1686(貞享3)年
    新撰増補京大絵図 【国立国会図書館デジタルコレクション

    江戸中期の古地図です。"禁裏""東宮様"の位置から"黒門"が堺町御門です。そこから南東の方向に"くハはら丁"(桑原町 黄色の横線)の表記がありました。丸太町通は縦に書かれていますが、桑原町と書かれている通りが丸太町通でしょう。また縦に"柳のはゝ二丁め"(柳の馬場二丁目 青線)と橘町の位置が、現在の柳馬場通と橘町の位置にあるのも確認できます。
    (地図の文字の解読はwebで教えていただきました。)

    この地図では、黄土色部分が路(通り)、白抜き部分が建物などの敷地を表しています。各町の名前が路の上に書かれていること、京都の町割りが両側町で構成されていることを考えると、桑原町は"くハはら丁"と書かれた部分の南北両側の白抜きの半分づつで構成されていたと考えられないでしょうか。

    天正の地割_wikipediaより
    Wikipedia 天正の地割より

    こちらは1590(天正18)年に豊臣秀吉によって行われた天正の地割(じわり)前後の京都の町と通りの変化を比較したものです。天正の地割では南北に通りが追加され、今までの空地が町になりました。

    天正の地割_wikipediaより
    Wikipedia 天正の地割より

    先ほどの地図を地割以後に当てはめると、ピンクが枡屋町、黄色が柳馬場二丁目、水色が舟屋町、青が魚屋町、緑が桑原町に当てはまります。かつて丸太町通りを挟んで、桑原町という実際に人が住んでいる町が確かにあったということにはならないでしょうか。今回の探索はここまでです。

    Sugawara Michizane
    菊池容斎による菅原道真像(Wikipedia 菅原道真より)

    最後に桑原町の伝説について。桑原という場所はかつて菅原道真の屋敷もしくは領地があった場所なので、死後、日本三大怨霊となった道真も桑原だけには雷を落とさなかった、そのために雷が鳴ると「くわばら、くわばら」と唱えるようになったという説があります。その桑原がこの桑原町なのかどうか。

    まずこの桑原町に菅原道真の屋敷か領地があったのかということですが、道真が平安京の内部に領地をもつというのも不自然なので、あるとしたら館があったのだと思います。ちょうど良いことに国会図書館のHPにこのようなものがありました。

    (ブラウザがIEの場合表示されないことがあります。)

    菅原道真が太宰府に左遷される前に住んでいた屋敷跡はどこか。
    道真が長じてから住んでいた京都の居宅は、梅が植えられていたところから「紅梅殿」と呼ばれていた。『京都の歴史』には、「紅梅殿は『拾芥抄』によると綾小路・五条坊門・町尻・西洞院に囲まれた地域で」とあり、現在の北菅大臣神社(きたかんだいじんじんじゃ 下京区仏光寺通新町西入)の位置に当たる。ただし、紅梅殿の跡地には、まず菅大臣神社が建てられ、元禄年間に、紅梅殿のすぐ南の一角にあたる天神御所の敷地内に移された。
    国立国会図書館レファレンス共同データベース

    菅大臣社_H31.02.08撮影
    菅大臣神社 H31.02.08撮影(追加取材)

    ここから先は私の想像になってしまいますが、現在の菅大臣神社及び北菅大臣神社は、桑原町とは全く違う場所にあります。道真の住んでいた屋敷が1か所だけではないのかもしれませんが、桑原町に道真と関連する何かがあったという話は、少なくともWEB上では見当たらなかったので、この桑原町のことではないように思えます。

    北菅大臣社_H31.02.08撮影
    北菅大臣神社 H31.02.08撮影(追加取材)

    全国に桑原という土地は何か所かあり、道真が流された大宰府の近く、現在の福岡県福岡市西区に桑原という土地もあります。また丹波の桑原に道真の領地があったと書かれたものもありました。道真の領地について、はっきりした文献は残っていないようです。

    Kitano Tenjin Engi Emaki - Jokyo - Thunder God
    Kitano Tenjin Engi Emaki - Jokyo - Thunder God2
    『北野天神縁起絵巻』に描かれた、清涼殿落雷事件(Wikipedia 清涼殿落雷事件より)

    しかし、恨みを飲んで死んだ道真が雷神となったという風説のきっかけは、930(延長8)年の清涼殿落雷事件になります。生々しく落雷を目の当たりにした平安京の住人たちからすると、丹波や九州の桑原というのは少し身近でないような気がします。

    蚕とクワ_wikipediaより
    蚕とクワ(Wikipedia カイコより)

    そこで私は、和泉の西福寺に伝わる雷井戸の伝説が、"雷が鳴るとクワバラ説"のもとなのではないかと考えています。いずれにしても絹は絶縁体としても使われますが、絹は桑の葉を食べて育つ蚕からできることを考えると、電気の知識が無い時代にこのような伝承がうまれたのは少し不思議な気がしました。
    桑原町:京都市中京区桑原町(地図 *宝ヶ池の北に左京区岩倉南桑原町という町もありますがこちらは違います。)
    H30.6.15(桑原町)取材、H31.02.08(菅大臣社・北菅大臣社)追加取材/H30.11月UP/H31.2写真入替と追加・加筆修正/H31.2再UP


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    テーマ:京都 - ジャンル:地域情報

    2018.11.04 | | Comments(0) | Trackback(0) | 【ト】京都のトピック

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